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事実と真実
- ◆ JUN [URL] [6819] 08/04/01(火) 19:43
- 前回簡単に、と言ったのですが、また少し難しいかも知れません。
物語の中のことって、全部実際には起こっていないことです。そういう意味では、その中の人物が死のうが、生きようが、すばらしい恋をしようが、読んでいる僕達には一つも関係は無いのです。
だけど、物語で泣くことがあるでしょう。
そういうあからさまな反応でなくたって、気持ちが動くというのか、ある登場人物を憎たらしく思ったり、好ましく思ったりはしているはずです。
それって、何なのでしょう。
物語だけではありません。このことは絵とか、漫画とか、ゲームとか、創られたものの全般に及びます。(起きたことを、作り手の視点で組み上げる記録映画や写真、ノンフィクションも含めてしまいましょう。)全て起こってもいないことなのに、僕の心の中へ忍び入っては揺らしていくのです。
その時僕はどうやらその中を通じて、現実の心の動きに通じる、何かの真実を見ているんじゃないかと思うんです。ものごとが実際にあったか無かったかに拘わらず、そこに言葉を超えたものを見て、そして心を震わせている。
そういう経験、みなさんはありませんか。作品を見ていて、起こってもない、起こるはずもないことが描かれているはずなのに、幸せの広がりとか、悲しみの共感が現実に起こったことのように感じられる。そういう経験です。
簡単に言うなら、『現実みたいに感じられた作品中の場面とか、人の気持ちはありますか? そして、それは何ですか?』ということです。それが何でだったのか、考えて付け加えてもらうと僕はもっと面白いのですが、それは出来る人で構いません。その内、僕も別に経験を加えましょう。
皆さんの幸福な経験、お待ちしています。
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返信と僕の体験
- ◆ JUN [6848] 08/04/12(土) 20:09
- 体験談
書き方が悪かったかなあと思います。僕自身何が聞きたかったのか、何が答えて欲しかったのか正直ちょっと掴めていません。>樹さんへ結構僕の言いたかったこと、言ってくれているような気がします。遠藤周作氏の作品は、『海と毒薬』、『ヘチマくん』、それに『おバカさん』しか読んでいませんが。引用文の中の真実を、僕は強調したかったのだと思います。事実は事実として、皆さんにとっての『真実』は何ですか、とでも尋ねれば良かったのだと思います。
体験談については、僕はもっと幸福なことがあると思います。樹さんがどうしてそんな風にしか考えないのか、と率直に思います。だけど、見てきたもの、聞いてきたこと、してきたことの違いなのでしょう。僕は、樹さんがしているようなことはどちらかというと苦手です。必死にやってみるものの、どうにも形になりません。直感的な嫌悪や、倫理的な拘束が働いて先に進めません。〜べしという考え方が強いせいでしょう。だけど、出来るのに理解できない、近寄りたくないっていうのは、できるだけ避けたいものです。>ルーキィさんへ的外れなんかじゃありません。僕が幸福と言ったのは、まさにルーキィさんがおっしゃる様な意味です。僕は何をする時も、できるだけ何かを感じたいと思って、やるのが望ましいと思っています。出来事だけ取ってみたら、何も変わらない日常とかでも、感じ方や出会ったものの抱き留め方一つで、どんな風にも色を変えるのであって。どんなことをしていても、一生それが出来る人で居たいな、と僕は思うのです。
僕のそんな風に感じられた体験は、高校生の時に『二都物語』を読んで、でした。
僕自身はその時も今も、社会に出てもいなければ、まだそれほど経験も重ねていないつまらない少年で青年です。それなのに、腕は良いけど悪辣な弁護士としてめちゃくちゃな生き方をしてきた主人公が、突然自分の人生を振り返って絶望した時、それに共感したのです。自分の悪い記憶ばかり思い出して、なんでこんな風に歩んできたんだ俺は、と誰にともなく問い詰めたくなる、そういう心境に。そうなった主人公を、主人公と姿のそっくりな夫を持つ女性が抱きしめて慰めました。その時の主人公の、自分が許されたというのか、それでも良いと言ってくれる人が居たっていうのか、その幸福感というか、喜びというものは僕にとって忘れられないものでした。
現実では、そんな風に人がこちらの心の中へわざわざ踏み込んで抱き締めてくれることなんて無いし、そんなことを期待し過ぎてはいけないのは、さておいて。
そして、その後。策略により死刑になるはずだった女性の夫の身代わりとなって、主人公はギロチンにかかります。たった一度の口付けと抱擁で、深淵から自分を救ってくれた人ために。その時の彼の心境を読んでいると、圧倒的なくらい清らかで美し過ぎて、僕には涙しか零れなかったのです。死なれる方の気持ちに〜とか、そういう当たり前のはずの理論でさえ僕には陳腐に思えてきてしまったんです。
そして、そこから未熟な間違った理論、励んでさえいれば何も言わなくてもそうやって自分を救ってくれる人がきっと出てくる。まじめにやる自分はそうやって救われる。僕を笑っている女子なんか、何か別の連中なのだ……的な気持ち悪い螺旋へと落ち込んでいって高校生活の一時期を棒に振るのですが、そこは割愛です。大学で人と話して、そんな状態からも一応脱することもできましたし。
ただ、言えるのはこんな風な考えの引き金になったのは、二都物語に書かれた彼の心情だったということです。その共感が僕の中に強い感情となって、それを考える内に僕の考えも変わっていったんです。二都物語は、フランス革命に題材を取ったとはいえ、実在の人物は出てきませんし、その意味では何一つ事実を書いてはいません。でも、僕にとってそこに描かれたことは真実で、そこから僕の考えは始まったんです。今から考えると、それはやっぱり幸福なことだったと思います。
どうせ本を読むのなら、そういう体験を、大なり小なり重ねて行きたいと僕は思います。だから、こういう話題にしてみたのですが、ちょっと重すぎた様です。
分かってもらえる書き方、話がし易い書き方というのも、重要なのですね。
ともあれ、お二方、本当にありがとうございました。そろそろ作品を更新して、今度はそこでお目にかかりたいと思います。
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Re: 事実と真実
- ◆ ルーキィ [6841] 08/04/07(月) 22:01
- こんばんわ。感受性がいまいち鈍い自分にはやっぱり上手く書けるかどうかわかりませんが……
村上春樹の『東京奇譚集』という短編集の中に『ハナレイ・ベイ』というお話があります。
鮫に足を食いちぎられ溺れ死んだサーファーの息子を想い、毎年ハワイのハナレイ・ベイへ赴く母のお話です。
詳しい内容は割愛しますが、近しい人の死を素直に嘆くことが出来ないという悲しさ、日々というものはこちらが悲しもうが笑おうが等しく繰り返されるけれど、ほんの少しのきっかけでその色は変わるのだという希望。逃れられない事、自分ではどうすることもできない事実に対する『赦し』が描かれていて、最後は暫く頁を閉じる事ができませんでした。
氏の作品は明確なオチらしきものを示さない場合が多いのですが、私はそれを『自分の都合の良いように解釈してもよい』という振れ幅なのだと受け止めています。(そうすると件のお話などは、私には癒しとなったけどある人にとっては無常観に繋がるかもしれないし、ある人にとっては何のこっちゃ分からない物語になるかもしれませんが)
私の場合、感じたり思ったりしたことを言葉にすることが非常に下手なので、自分が常々求めている説明しようのない情景や思考を描いてくれている本や物語に出合えたとき「読んでよかったなぁ」としみじみ思います。
例に挙げた本の場合、はっきり解が描かれていた訳ではありませんでしたが。変えようの無い『現在』という奴を赦してくれる優しさを文脈の間に感じ取る事が、私にとっての幸せな体験となりました。
思うに、誰しも欲求というか「感じたい」「知りたい」と思う情感を心に持っていて、それを満たしてくれるモノに出会えると言う事がひとつの『幸せ』なのではないでしょうか。本に限らず、キレイな空を見られたとか、素敵な音楽を聴いたとかそういうことも。感じ方の大小はあるでしょうが、そういうちょっぴり心が動く体験を求めて、私達は日々本や漫画を読んだり旅行をしたり音楽を聴いたりするのでしょうね。
もしかしたら全く的外れな事を言ってるかもしれませんが……私にとっての『幸福な経験』とはそういったものです。
それでは、失礼いたしました。
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Re: 事実と真実
- ◆ 樹 [6823] 08/04/03(木) 00:08
- お初です。新しく投稿しようかどうしようか検討中の、樹と名乗る者です。
「事実と真実」という言い回しを聞くと、故・遠藤周作先生の『イエスの生涯』という著作のくだりを思い出します。内容を要約すると、
「聖書に語られるイエス=キリストの姿には、必ずしも事実でない創作が多々織り込まれている事は認める。しかしそれらの姿は、その時代の信仰者が心から欲した場面である以上は真実であり、そういう場面を創らざるを得なかった以上は真実なのである」
……となるのかなと。
わが身のような俗な人間にはつい、キリストの奇跡が本当に起こったのか、という「事実」に眼がいき勝ち(そういう関心自体が俗ですが)なのだけど、本当に大事なのは、「なぜ」聖書が現代に伝わってきたような形であるのか、そこにどんな願いが込められていたのか、の部分であるのだ(その部分をこそ「真実」と呼ぶべきなのだ)という風に解釈しています。
体験については。別に幸福な経験でも何でもないけど、
「人を殺した人間はその後なにを思い、どんな人生を歩むことになるか」
「人肉を食った人間は(以下同文につき略)」
「近親姦を犯したら(同じく略)」
等々。現実の自分には起こってもいない、たぶん起こる筈もない事象を、「もし自分の身に起きたら自分はどう反応するだろうか」という思考実験を、ヒマを見つけてはやっています。
自分がもしかして哲学者向きなのか、それとも現にもう狂ってるのか、それは知りませんが。どんな事象でも「自分に関係ない」とは思わず、一応、わが身に引き寄せて疑似体験するように試みてはいますね。こうした訓練がたとえば、現実にある人をむしょうに殺したくなった時に、
「俺は人殺しはしない。何故ならこうこうこう云う理由があるからだ」
と、少しは理詰めかつ冷静に対処する事ができるようになるかも知れない、という点で役立つことを淡く期待しながら。
その過程でJUNさんの仰ったような、悲しみの共感が現実に起こった事のように感じられる、という事も、間々あります(幸せの広がり、というのは殆ど感じたことが残念ながらないですね。テーマの選び方が悪いせいかとw)。
JUNさんのスレ内容、及び期待する答えからは激しく逸脱しているかも知れませんが(汗)一応マジメに応えてみた樹でした。それでは。
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