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”アーチェ”をどう書くか

JUN [6920] 08/08/13(水) 08:37
 タイトル通りです。ただ、僕はアーチェのキャラクターとか、そういうものの解釈だけ訪ねているのではありません。
 僕が知りたいのは、百年を生きるアーチェの心の中とか、その人間性などをみなさんがどう想像するのか、あるいはそれが想像できるのかということなんです。
 マサツを覚悟で言いますが、百年、千年、クラトスまで入れるなら一万年以上を若く美しいまま生きる人間など恐らくこの世のどこにも存在しません。よってその人が何を思うのか、どういう風に生きていくのか、それを僕やみなさんが実際に本人から話を聞いて想像するというのは、恐らく不可能なんです。
 だけど、アーチェは原作に居るわけです。もし僕やみなさんが彼女を書いたのならば、アーチェはその作品の中に生きているわけです。僕はかつて“事実と真実”の所で、実際にはないこと、居ない人がある、いる用に見えると言いましたが、まさにそれが起こります。
 こういうことは、アーチェに限らず起こりうることでもあるでしょう。というか、テイルズという作品世界にあっては、おおよそあり得ないようなことも多いものですから、ほとんど共通するのかも知れません。

 そこで尋ねようと思います。こういう実際には決して居ないと思われる人を書く時、みなさんはどういう風に想像しますか。何を基準に想像しますか。また、想像する時に何か参考にすること、ものなどはあるでしょうか。差し当たっては、テイルズに登場するアーチェ以外の、あり得ないほど生きる人、あり得ない存在である人を例にとってもらってかまいません。
 ただ、僕自身がその人の詳しいことを知らない可能性もあるので、その人について簡単な背景なんかを書いて頂けるとありがたいです。ネタバレとかは気にしなくても構いません。

ファンタジーの価値

JUN [6942] 08/08/29(金) 00:09
 皆さん、レスありがとうございます。

 そもそもこの問いかけの理由は、僕自身がファンタジーそのものに積極的な理由を見出せずにいることでした。しかし、そこを納得させてくれるような意見は、今この場では出ませんでした。

 あえて言うなら、樹さんの答えが、一番僕が欲しかったものに近いのでしょう。特に、ファンタジーでしか書けない純粋な気持ちがあるから、それを書くためにファンタジーがあるんだ。そういう純度の高い気持ちを書いたり、想像したいから、ファンタジーの世界に浸かる。
 これは、その通りだと思います。現実ではできないことができるということこそ、芸術が持つ最高の点の一つです。ファンタジーを書くことで、現実をぶっちぎりで超越した、純粋な何かを追うことが出来る、僕はそれを見過ごしていました。
 これはとても大切なことです。これを知っているかいないかで、時にはその人の人生さえ決まってしまうほどだと思います。だから、本当は、僕もファンタジーの価値を問われた時、それを声に出して言いたいくらいでした。アーチェに即して言うなら、誰かを大切に思い、再会を待ち望む姿の健気さ、またそれが報われる時の喜びというのは、百年姿を変えずに生き続ける彼女を書いた方が、より純粋な形で見出すことが出来ます。それは、現実の「ありえる」どんな人間を書くことよりも優れた方法なのでしょう。だから、アーチェを書くのだ、と。
だけど、それだけしかしない人間が、社会的にはどれくらいの物なのかと考える時、ファンタジーに耽溺することの罪みたいなものを感じてしまうのです。
高校を卒業する頃には、社会がそういう考えとは一つの線を引いた所で回っているのは大抵の人が分かってくると思います。僕は、そういう現実を見、そこで生きなければならないことを考える時、そこに無い気持ちを考えることになんか、どれくらいの意味があるのだろうか、と、どうしても考えてしまうのです。故に、僕の中では、例え純粋な気持ちが描けるとしても、それを描いたところでどうなるのかという考えが挟まれてしまい、樹さんの意見だけでは、どうとも自分を納得させることができませんでした。

 イルさんの意見について申し上げると、多分イルさんのおっしゃりたいことというのは、樹さんが指摘してくれたメリットと似ているのだと思います。ありえないことをありえないで終わらせない。想像し、その人を客観的に見た姿を描くこと、それによって、実物に対して共感できること以上の何かが生まれる。だから、ありえないことでも、ありえるように想像することが重要なのだ。これはその通りですが、僕自身は、そう考えようにも、既に上で樹さんに対して申し上げたことの様に、余計な考えが挟まれてしまって、それだけでありえないことの想定を肯定しきることができません。
 それと、客観的な姿について申し上げるのなら、何度か意見を読んで考えてみたのですが、ある人に共感して掘り下げて書いていった作品においても、第三者から見たその人の姿というのが大抵現れていると思います。小説において、誰かを想像し、共感して描くことというのは、同時にその人の客観的な姿、その人から伝わる第三者的な何か、つまりテーマのようなものを必然的に孕むと僕も考えています。自分の作品を振り返ってみる時にも、とにかく『……という人が書きたい』というつもりで書いた作品だって、そのものを見れば、『……という人』の姿を通じて、『〜ということ』というその人から離れた客観的な何かが見えてくると思います。だから、僕は別にその部分を大切にしていないわけではありません。

 飛鳥さんの意見は、折角書いていただいたのですが、まさにそういう方向性があるがゆえに、僕はファンタジーを逃げと感じてしまうのだ、と答えるしかないものです。
 基準が無いとか、現実の誰かから文句を言われたりしにくいとか、現実を経験しなくても書いてしまえるとか。書いている、読んでいる自分のどこかに、常にそういう考えを感じてしまうが故に、僕はファンタジーの世界を肯定しきれないんです。それくらいなら、少なくても知っている現実を継ぎ接ぎしたものに取り組んだ方が、書けることに制限はあっても、頑張って書いている様な気がしてしまいます。
 また、実際にはファンタジーをきちんと書く方ほど、作品内のリアリティを作り出すために必要な資料はきちんと集めたり、現実の史跡に取材したりというのを丁寧に繰り返している様です。だから、厳密には、基準が無いというのも実は結構いいかげんなもので、上を目指せば目指すほど、現実の神話や伝承、歴史、文化などに習熟しているかどうか、またそれらをうまく噛み含めて、お話として面白いものを作り出せているかどうかの両方が評価の焦点になってきます。その意味では、ファンタジー専門の読み手とかに読んでもらおうと思うなら、かなり厳密な基準がある様です。


 協力していただいた方、返信を頂いた方、全てにお礼を申し上げます。本当は、これだけの方に時間を取って書いて頂いたのだから、樹さんの意見を認めるだけにして、『疑う僕が間違っていました。皆さんありがとうございました、みんなその通りだと思います』という趣旨のレスを書く方が良かったのかも知れません。だけど、僕には妥協できませんでした。
 皆さんの中では、答えは出ているのかも知れませんが、僕にはまだしっくり来る回答が見つかりません。僕の中だけですが、この問題は保留ということで、お願いします。

 差し当たっては、僕の疑問にこんなに丁寧に答えてもらえる皆さんの存在を知れたのが、この記事を書いて得た最高の収穫です。
 それでは、この記事にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

ありえないということ

JUN [6934] 08/08/18(月) 23:58
 皆さん、様々な回答、ありがとうございます。
 それらを踏まえてもう一歩踏み込んで聞いてみたいのですが、どうして“アーチェ”や“クラトス”や、その他色々なあり得ないことを皆さんは求め、書かれるのでしょうか。

 実はこのトピックを立てたのは、暗に『居もしない存在』への想像、それを通した共感を簡単に許容することへのアンチテーゼでした。
 僕は“アーチェ”をどう書くか、考えてもらうことを通じて、“アーチェ”がいかに人間と比べて書きにくく、想像しにくく、共感しにくいものであるかということを示したかったんです。ところが、尋ね方が悪かったせいかも知れませんが、答えて頂いた皆さんは、“アーチェ”の書き方をしっかりと考えて教えてくださり、“アーチェ”を考えること、“アーチェ”のような存在を作り出すことの意味については、特別に考えて居ないように思えたんです。

 だけど、僕にはそこが分かりません。一体、どうしてそんなにあり得ないことを信じたいのか。

 というのも僕は、年を取ってしまったせいか、千年生きるとか、死なないとか、生まれ変わるとか、一見して明らかに「ありえないこと」というのが、そう簡単に信じられなくなってきたんです。
 ファンタジーのリアリティっていうのは、嫌いじゃないけれど、時々あまりに率直な自と比べて違い過ぎる時があり、僕が見たこと、聞いたこと、感じたことと食い違いすぎて、どうにも食傷してしまう時があるんです。現実に生きている人の声も、姿もそこにはほとんど反映されていないんじゃないかと思ってしまうんです。

 もう“アーチェ”に集約して論じるのは難しくなってきていますが、敢えて言わせてもらうのならば、待つことの辛さを知っている人は居たって、実際に百年を待った人なんて、この世に居ないんです。
 これはブレイズさんとは真逆の方法論となりますが、僕は書く時に作中に出てくるどんな人にでも共感できる、しようとしてしまいます。想像力と思考の幅さえ広がれば、それが出来る人の枠というのも増えていって、次第に色んな人が書けるようになるという考え方です。
 そしてその時僕が大事にしたいのは、実際に題材となる出来事に遭った人と話してみて、雰囲気、表情、言葉から共感し、想像することなんです。
“アーチェ”の場合にはそれができません。特に、彼女のあり得ない部分がテーマの前面に出てくる話についてそうです。『チェスターを百年待ち続ける気持ち』もそうですし、『皆が年を取るのに、いつまでも自分は若いままという気持ち』だってそう。

 これらはそもそも、それを体験した人がどこにも居ないんです。何とか共感、想像しようとしたって、そういう人がこの世のどこにも居ない以上、会って話を聞くことが絶対にできません。仮にそれと似ている気持ちを思い浮かべたとしても、それらとアーチェの気持ちとの間が余りに離れ過ぎていて、そこから継ぎ接ぎして作られるアーチェの気持ちというのは、やはりそのものから印象を受けて書いたものとは大きく違ってしまう気がするんです。
 そうなるくらいだったら、まだあり得るようなことを、印象が新鮮な気持ちに近いことをまとめて書いた方が、良い物ができると僕は考えてしまいます。

 だけど、これには欠点があります。こんな風に結論するなら、僕はファンタジーそのものを書く必要も、評価する必要も無くなってしまうんです。だって、『ありえない』んですから。

 しかし、僕はここで二次創作を書き続けています。体験とか印象を組み合わせて、できるだけ感じやすい表現ができるよう、自分なりに工夫をして。
 新鮮さやリアルさというのなら、僕が今暮らしているこの環境、知り合った人から聞いた話だけを題材にすれば印象は最高に新鮮で強いはずなのに。なぜこれをしないのでしょうか。考えるほど分からなくなります。

 結局、好きだからかも知れません。あり得ないと分かっていても、僕は目の大きい女の子や、小さな身体で竜をぶん投げる男の子、千年生きる美女、美男なんてのを想像したいようです。だから、同じようにそれが好きだという人と一緒に作り、そういう人達に読んでもらって、ここに居て二次創作をやっている。そして、それがなんで好きなのかとくれば、今までの僕をカミングアウトしなきゃならないでしょう。
 半分惰性にも思えますが、僕の立場はそんな感じです。皆さんはどう思われますか。ここまでにレスをして頂いた方でも、していない方でも構いません。どうぞ、答えていただけないでしょうか。

Re: ありえないということ

◆ 飛鳥 [6941] 08/08/25(月) 23:57
こんにちは。前回は的外れな回答をしてしまい申し訳ありません。今度こそは質問の意図にあった回答を……っつってまた外してたらさらに申し訳ないのですが(汗)

なぜあり得ないことを求め、信じようとするのか。

それは、「あり得ない」は「あり得ない」ではなく「あり得るかも知れない」からかなぁなんて考えました。

千年生きる種族、魔法etc……ファンタジーでよく出てくる「現実ではあり得ない」ものは、JUNさんが仰られたように、それを体験した人はどこにもいないはずです。観測や実験で存在の証明も出来ていないし、万人の認める理論で説明も出来ていないはずです。少なくとも、私は知りません。
ですが、だからと言ってそれらを100%否定できるかと言われれば、それも出来ないんです。存在する確証が得られないのと同時に、存在しない確証も得られていないんですから(あくまで私の知る範囲で、です)。
99%の確率であり得ないかも知れないけれど、残り1%の確率で実在するかも知れない……完全に否定できない。それなら99%を信じてあり得ないと切り捨てるよりも、残りの1%を信じた方が夢があるし、楽しい。だから私は、「あり得ないもの」もとい「あり得るかも知れないもの」に魅かれ、求めてしまうんだと思います。
要は宝くじみたいなもんじゃないでしょうか。3億円なんて当たんねぇよと思いながらも、もしかしたら当たるかも知れないと思ってついつい買っちゃう、あの感じ。あれにちょっと似てる気が……。

あり得ないことを求め、信じようとする私の考えはそんな感じです。他にも「死や極限の境地など、現実離れしたことに関する自分の考えを物語に織り込む場合は、あり得ないことを織り交ぜた方が逆に現実味が出たり、読者の方が分かりやすい場合があるかも」とか「あり得なくなるくらい設定を極端に飛ばせば、描きたい心情がより際立つこともあるかも」とか、小説の書き方が原因でもあり得ないことを求めます。
アーチェのような設定をもつ存在をわざわざ創ろうとする理由はこちらの方が主な原因かも知れません。『リアリティの形』のところに書かせて頂いたように、設定やら世界観はキャラやストーリーを最大限活かせるようにいじりまくるので、あり得ないことを混ぜることでキャラやストーリーが活きると思えば即ぶち込んじゃいますし……。


それと、前回の質問の意図が
>>僕は“アーチェ”をどう書くか、考えてもらうことを通じて、“アーチェ”がいかに人間と比べて書きにくく、想像しにくく、共感しにくいものであるかということを示したかったんです。
であったようなので、勝手ながらリトライさせて頂きたいと思います。

JUNさんは“アーチェ”が書きにくいと仰っていましたが、私は真逆でした。書きやすいです、“アーチェ”、もとい「あり得ないもの」。じゃ〜何で書きやすいかって話ですが……書きやすいというか、私にとって「あり得ない」ことを書く方が自分で納得しやすいんだと思います。

何というか……私は自分で書いた”「あり得る」ことでなおかつ自分が体験したことないことについての文章”や”伝聞や想像や知識だけで書いた文章”が信用できないんです。
体験した人がいるということは、リアリティの面ではその人たちの感じたことがいわば「正しい」わけです。百聞は一見にしかずという言葉があるように、体験したことのない人間がいくら共感し、想像を膨らませたって、体験者の言葉には敵わない……そう思っています。
知識や論理で武装しても、「じゃ〜あんたはやったことがあるのか」と言われてしまえば、私の場合おしまいです。途端説得力がなくなって、極端な話、その時点で自分の言い分が全て嘘になってしまいます。実際に体験した時に得られる情報量は、それほどまでに確実で膨大だと思うんです。
そんな感じで書く上で貴重な情報であるはずの体験者のお話が、私の場合逆に障害となってしまい、結果自分で自分の書いたものが納得できなくなる。なので未体験のことについて話を聞いたり、考えたり、想像することはあっても公表はしない、というのが私の考えです。

そのせいで、自分にとって「あり得る」ことというのは、かなり束縛条件がきつくて書きにくいんです。上の話を総合すると、「自分が体験したことしか納得して出せない」ってことですから。いえ、まぁ実際そんなことはないですし、書いちゃったりもしていますが、常に余計な不安が付きまとうというか……。その不安を少しでも払拭するために、前回書いたような、自分の経験と結びつけて想像を膨らますといった手法を使っているんだと思います。

その点「あり得ない」こと……あり得ないまではいかなくても、体験者が少ないと思われることならば、その束縛条件が緩くなると感じています。
JUNさんが仰るように、「あり得ない」ことを体験した人はどこにもいません。しかし、それゆえにこの世に存在する「あり得ない」ことを体験した人の気持ちに関する情報は、どんなに怪しいものでももっともらしいものでも信憑性は同程度なんだと思います。
様々なルールや原作、読者の方々が抱いているイメージによって変わるとは思いますが、基本的に基準がない(誰も知らない)ので、どれが信用できてどれが信用できないかなんて判断できないわけです。誰がどう描いても結局情報の価値が同等なら、上のように、自分が知り得ることが難しい信憑性の高い情報が原因で納得できなくてお蔵入り……なんてことなく比較的自由に書ける。だから私の場合は「あり得ない」ことの方が想像しやすいし、書きやすい、と考えた次第です。

こ、今回はちゃんと質問の意図に沿っているでしょうか……? 長くなってしまいましたが、少しでもJUNさんのもやもやを晴らすお手伝いができていたら幸いです。投稿が遅れてしまって申し訳ありませんでした。それでは。

「 ありえないということ」 はありえる。

◆ イル [6940] 08/08/22(金) 00:02
どうもこんばんは、イルと言う者です。乱文でよろしければ、意見を書かせていただこうと思います。

「ありえない」はありえる。

言葉遊びですが、JUNさんの言葉を見ますと、「ありえる」なら理解する事は出来ると言う風に受け取れます。
理解するのと考えるのとは違います。考えるというのは過程であり、理解するのは結果です。仰る通り、アーチェを理解することは出来ません。でも、考えることは出来ます。ここまでは、”アーチェをどう書くか”という最初の問題に解答を書かれた方達と同じです。しかし、先にはっきりさせておきますが、それはありえないを信じると同義ではありません。只の考えるという行動です。
そして二つ目の質問の「ありえない」についてですが、私はキャラクターとの共感にはっきりした価値を見出す事は出来ません。つまりありえない自体に、障害物として考えはしても、大した壁を感じません。勿論キャラクターの気持ちを本当の意味で理解できてないと感じ、歯がゆくなる事もあります。でも、想像が時に本当のそれを超えたり、本当の気持ちをわからないからこそ見えるものがあると感じるのです。つまり、アーチェ自身は分からないアーチェを知っていると思うんです。人の心理というものは四つの窓から構成されます。自分も他人も知っている部分、自分しか知らない部分、他人しか知らない部分、そして誰も知らない部分。JUNさんはキャラクターの「自分も他人も知っている部分(共有知識、ここでは設定)」と「自分(キャラクター)しか知らない部分(ここでは心情)」を考えることを主とされているようですが、私は「他人(プレイヤー)しか知らない部分(客観視)」を考えることがあります。他人しか知らないアーチェとは、私の中では「他人には理解できない苦しみの中でも生きる逞しさ」です。想像できない、ありえないをありえることとして「経験した彼女」を「見る」ことで、私達は本人達も気づかない別の面を描く事は可能だと思います。それは、他人の心を知ることは出来ないけれど考えることが出来ることや、他人さえも気づけないことに気づける事に似ています。
私はありえないことをありえると信じるのではなく、考えるという過程は時に結果以上の意味があると信じています。キャラクターのありえないをありえるとすることは出来ませんが、ありえないからこそ考えることの価値があると思うんです。

ありえない(ファンタジー)を只のありえない(ファンタジー)で終わらせるかどうか。

それがファンタジーに付き纏うものであり、ファンタジーを書く人が超えるべき課題、読む人が受け取りたい価値あるものなのかもしれません。また、多くの人がファンタジーを好きなのは、書き手がありえないで終わらせないからとも考えられます。

では、この意見が少しでも疑問解決に役立つことを祈りつつ、失礼させていただきます。

Re: ありえないということ

◆ 樹 [6938] 08/08/21(木) 01:30
 今晩は。以前JUNさんのスレに書き込ませて戴いた者ですが、好奇心を刺激されたのでまた一丁やってみようかと。宜しくお願いします。
 JUNさんの仰るような、実地に体験者を当たってその体験を共有していくのは、個人的には民俗学的にいう「フィールドワーク」に類する方法論だとお見受けします。ファンタジーよりはノンフィクションを書こうとする際に有効(場合によってはこれを怠ると訴えられるという程に不可欠なもの)な方法ですが、ファンタジーに適用する効用も大いにあるでしょう。ファンタジーもまた現実の人間が生み出したものであればこそ、その「親」のことを詳しく知ることが、それを描くに無駄である筈がなかろうというのが持論です。情景描写や心理描写、その他あらゆる場面において。

 ただ「共感」という観点から言うと……
 リアルにいる人とは、自分と相手が同じ人間であるという事実、それに基づいてなされる感情の遣り取り、ひいては「この人にありうることが自分にもありうる→気持ちがわかる」というプロセスがあって、共感を持つに至る。と仮定すれば、ファンタジー世界に存在する住人たる「ハーフエルフ」のアーチェとは、その過程をなす共通基盤、リアルではあった「自分が相手と同質である」という前提がない。千年生きることも、愛するひとを百年待つことも全くありえない。
 ゆえに「共感」は成り立たない……はずなのですが、事実として我々はアーチェの気持ちがわかると言う。共感は成り立っていると見える。それは思うに、彼女が人間ではなくとも、人間を同じような心を持っているという、物語中で暗示する描写にある。愛しいと思い、哀しみに涙する心を、共感に必要となってくる共通基盤としている訳ですね。

 それと「百年待った人の気持ちは、同じく百年待った人にしかわからない、ゆえにアーチェの気持ちはわからない」というのに対して。
「共感」というものに不可避な、本質的なものとして私には「類推」が存在する、と考えています。私にも起こりうる。「同じ」だろうが「似たような」だろうが、その苦しみ哀しみを味わう可能性が私にもありうるから、私はあなたの気持ちがわかるという(厳密には「似たような」状況を感じた場合のみ、類推が働いている、と言えましょう)。

 ですからアーチェの苦しみに共感するために、必ずしも百年の孤独を味わう必要はない。不謹慎な例かも知れませんが、北朝鮮に家族を拉致された方々にとって、奪われた家族の人数と帰ってくるのを待った年数で考えてみましょう。少なく奪われ、短く待たされた人が、より多く奪われ長く待たされた人よりつらくないなどということが、どうして言えるのか。心の動きというのは数量的に比較できるほど単純ではない、と思いますし、また言えたとしても、やはり前者は後者に、後者も前者に「あなたの気持ちがわかる」と言うでしょう。それもそこに「共感」があるからであり、その根底に「類推」が働くからこそかと。

「類推」は自分がまったく知らない、体験しようもない事象に対しても、より原初的な痛み・やけどするような熱さ、などの記憶を媒体にも、機能するものだと考えています。これも不適切かも知れませんが、原爆の被爆者の方々を
挙げてみます。
 被爆した方々に、JUNさんの仰ったような方法でその体験を伺い、苦しみを想像することはできる。しかし同じように原爆を受けて苦しみを追体験することは、エルフなどの存在と比較すれば絶対とは言えないけれども、ほぼ不可能・「ありえない」でしょう。そういう意味では、戦時中の暮らしなどと同じように、原爆の存在も私たち戦後世代には現実離れしてファンタジックなものと言わざるを得ない。どうしてもイメージや想像を通してしか、向き合えない面がつきまとう、という意味でです。それでも原爆を受けたはずがなく、これから受けようもない多くの若い人々が毎年、広島を訪れ、原爆ドームの前や資料館で涙し、黙祷をささげている。
 それはやっぱり、「共感」が働いているからではないでしょうか。どれほど熱かったか、痛かったか、苦しかったか……という問いかけを、見たこともない死者に発することで、自分の身に引き寄せて感じる類推をしながら。
「ファンタジー」の効用についても卑見を。
 前にJUNさんのスレッドに、私の身にいろんなこと(人を殺す・人肉を食う・インセスト禁忌を犯すなど)が起こることをわざわざ空想している、と申しました。ありえないことを空想する、という点では、程度の差こそあれファンタジーの世界に遊んでいる、と言えるのかも知れませんが。
 人間の歴史をたどれば、人殺しも人肉食もインセストも星の数ほど行われたことがわかる。それを少しずつ知るに至ってから、
「それでは人を殺した(人肉を食べた・肉親を穢したetc)後、もし生き残ることが許されたなら、自分はなにを思いながら生きていくのだろうか?」
 という疑問が、絶えず自分の中に渦巻いている。「絶対に」ありえない、そんなの考えることすら気持ち悪い、と思考停止してしまう方が、健全な心なのだと思いますが、古今の小説でもさかんに取り上げられてきたこれらのテーマで、どうしても思考したいと思ってしまうのですね。まあ、ことは別にこれらの禁忌に限りません。例えば、

世界が終わる。その崩壊は、自分の大切な恋人をその手にかけることでのみ止められる……どちらを選ぶか?

 ラノベなどで(テイルズにも)見られるこんな状況。リアルではありっこないです。「ありえない」ことを何故、私たちは考えてしまうのか、と言うと、それを考えることを通して、リアルで大切なもの、大切にすべきものを改めて確認するためなのだと、私には思えます。
 ありえないことを通して、リアルではとかく多忙な日常や騒音なんかに紛れてぼやけやすい何がしか(ex.善とか魂とか崇高さとか)を、集約して考察の俎上にのせる。その表現手段としての、ファンタジーなんじゃないかと。
 こんな返答で宜しかったでしょうか?
 自分としてはファンタジーの効用という後者の論がなんだか、自分で書いていて腑におちず。挙げた例が厳密にはエルフの存在みたいな「ファンタジー」ではないからなのでしょうが、作風とかテーマとかによってもその定義が変わってくる面もありましょうし、簡単にはまとめきれず。
 ヒマなときにまた考えてみます。

 個人的にはJUNさんのこうした議題には、いつもどう答えていいかわからなくなって紆余曲折、出来上がった回答にもなんか満足いかず……というモヤモヤを繰り返し味わわされます。日頃ものを考えていないからだろーな、と思いますが。
 結論なんか出やしない……と言うときも、しかしその「わからなさ」こそが面白い、という面も、確かにあります。

 また面白い議題にはオジャマさせて戴けると楽しいです。それでは!

ご迷惑

◆ 樹 [6939] 08/08/21(木) 01:35
 すみません。上のレス、一部改行がうまくいってなくてゴチャゴチャしてしまっていますが、一回消してもっかい、ちゃんと改行して送ってみたんですが何故かうまくいかず……
 もったいないので再削除はせずこのまま置かせて戴きます。お見苦しいでしょうがご容赦戴ければ幸いです。

Re: ”アーチェ”をどう書くか

◆ 斧 [6931] 08/08/17(日) 02:36
 アーチェを書くのであれば、アーチェになりきればいいのだ!

 はいまぁそりゃそーですよね。

 具体的に言いますと、もはや人外とも呼べる無茶な設定をしておられるキャラクターや本当に人外の未確認生物の心情を書く際、俺はまず物事のすべてを"そのキャラクター基準"で考えます。
 例えばアーチェの場合、人間との違いは言うまでもなく寿命です。なんつっても彼女は平均10世紀生きるわけですからね。そこには我々の想像を絶する、筆舌に尽くしがたい問題が山のように存在するでしょう。でまぁそれを筆舌にしなきゃならんのですがね。まいったまいった。
 そんで問題のその寿命について。我々はアーチェを見て「1000年生きる人」と捉えますが、それをアーチェ基準で考えます。すなわち、

 ・アーチェにとって、周りの人間は自分の12.5倍の速度で老衰する。それを見ている自分はほとんど歳をとらない。
 ・アーチェにとって、(親しい友人や知人を含めて)周りの人間の寿命は6年強。
 ・アーチェにとって、一人の男性と結婚しても一緒にいられるのはせいぜい5年程度。これはハムスターや金魚のような小動物のペットと過ごす時間と同じ程度。
 ・アーチェにとって、生涯を通して世界の文明は、剣や盾を手に戦っていた時代(中世)から近代まで進む。

 ・アーチェにとって一番楽しかったであろう日々(打倒ダオスの旅)を共にした仲間達は、誰一人として自分の死を看取ってくれない。

 ……みなさんおわかりかと存じますが、これはアーチェの寿命を人間の平均寿命である80年に短縮した場合の周囲の変化です。……どうですかこれ。きっつぃですよねぇ。パパッと列挙しただけでもこれだけあがるんですから、たぶんアーチェの寿命がらみだけでも十分話のネタには事欠かないでしょう。まさに逆浦島。ピーターパン状態です。
 とまぁ、せっかくキャラクターの心情を書くんですから、深いところまでとことん考え抜くのがいいと思います。そこは作家の想像力の見せどころ。他人の気持ちなんぞわからんわ〜ではもったいないというのが俺の意見です。
 自分自身をぐりぐり追い込んで――それこそ悲惨な運命を背負わされたアーチェと同調するくらいの覚悟で書くのです。

 要するにMッ気ないとムリです。こんだけ書いといてその結論……。

Re: ”アーチェ”をどう書くか

◆ ブレイズ [6929] 08/08/16(土) 01:17
こんばんは。稚拙な意見を寄せることをお許しください。
さて本題ですが、一般的な人間と異なる特性をもった対象を書くとき、一般的な人間を書く場合との違いを特別に意識する必要はないのではないだろうかと私は思います。
そもそもわれわれと生物学的に変わらない特性をもった対象を書くとしたところで、われわれはその対象が然るべき場面でどのように考えたり行動したりするのかということをやっぱり自分の頭の中で想像して書くはずです。それがたとえ実在の人物をモデルにしたキャラクターだったとしても、自分ではない他者が実のところどんな精神性を持っていてどんな考え方をしているのかなんて結局のところわからないのですから、それは想像でしかないはずだと私は思うわけです。つまり対象の精神性の実在性なんて求めるべきものではないんじゃないかと思うわけです。
アーチェみたいに一般的な人間とはちょっと違う特性をもった対象を書くことと一般的な人間を書くこととの間にそれほど差がないと言った根拠がこれで、つまりは両者とも想像の域を出ないということが言いたいわけなのです。ですから私は両者を書くときの方法に大した違いは持っておりません。アーチェのような特別な対象にしろ一般的な人間としての対象にしろ、自分の自意識を除く他者の精神性の実在性は考えるべきではないというのが私の意見です。
このやり方が単なる怠慢であるのか効率的であるのかの判断は自分には付きかねますが、それについてはこのトピックに書き込まれる他の方の意見を見て考えたいと思います。
それでは駄文失礼いたしました。

Re: ”アーチェ”をどう書くか

◆ 飛鳥 [6928] 08/08/15(金) 00:32
こんにちは。こちらでちょくちょくお邪魔させて頂いている飛鳥です。

私は結構ノリと勢いで書いてしまうというか、掲載作品のほとんどがギャグなので、その辺さらっと流してしまうことが多いのですが、改めて自分のやり方を分析してみると、「実際にある出来事(または自分の経験)と結びつけ、そこから想像を膨らましている」ように思います。
長い間ずっと同じ姿で生きるとか、過去や未来に時間転移するというのは「あり得ない」ことです。ですが、長い間同じ姿で生きることで抱く気持ちや、過去や未来に行き、その世界に触れて感じる感情というのは、「知り得ない」ことではない……いえ、まぁ知り得ないことは知り得ないんですが、何というか……現実でも似たようなことがあるというか、本質的に同じことは経験しているんじゃないかなぁ、と。
たとえば、TOEでセレスティアというもう一つの世界に降り立ったリッド達の心境は、見知らぬ土地を訪れた時の気持ちと似ているはず。それなら修学旅行で普段行かないような所へ行った時の新鮮さや、ちょっとした不安なんかと似ているかもなぁ、とか。
親が死に、友と別れてもなお、クレスたちと再会する日を夢見て100年生きたアーチェの気持ちは、その先にある何かのために、辛い道でも頑張って進んでいこうという感情っぽい。なら期末テストでいい点取ったら欲しいもの買ってやると言われて頑張ったあの時の気持ちに似てるのかも、とか。(怒られそうで怖いのですが、身近で想像しやすそうかなぁと思ってこんな例えにしてみました)

そんな感じで、想像力を働かせるためのとっかかりを実際の出来事から見つけてきて、それらを参考にしながら想像を膨らませて「実際には決して居ないと思われる人」の心中を考えているようです。

この意見が何かのお役に立てば幸いです。それでは、ありがとうございました。

Re: ”アーチェ”をどう書くか

◆ kye [6924] 08/08/13(水) 20:34
こんばんは。妄想力に定評のあるkyeです。どこの誰が評したかは秘密。

想像の難しい存在の書き方、ですか。
kyeの想像には自分の身体感みたいなものが基底にあるんですね。
放っておいても腹は減るし、夜には眠くもなるでしょう。走れば疲れ、転べば痛む。そんな当たり前の感覚です。
それを想像上の人物、存在ならばどう感じるか、感覚を想像します。

クラトスなんて面白いですよね。天使だから眠らないし、腹減らないし、痛くもないけど、身体の隅々まで感覚が通じているっていうところが。
どれだけ自分で自分を支配しているのだろうか、などと客観的な想像と同時に、それがどんな感覚なのか、想像を自分の身体感に当てはめます。
あるいはコアクリスタルに宿るソーディアンの人格なども想像すると面白いですね。OSがPCの中で息をしているように想像するとほっこりした気分になります。
もしかすると自分はこういう未知の身体感を想像するのが好きなのかもしれませんね。巨人とかロボットとか軟体人間とか群体人間とか…そういうものばかり考えてしまいます。

以上、kyeの想像の基準、「身体感」を簡単ですが、挙げさせていただきました。
半端な意見かもしれませんがお役に立てば幸いです。

Re: ”アーチェ”をどう書くか

◆ にゅ [6923] 08/08/13(水) 19:04
元来、『神』と呼ばれる存在を書いている私ですけれど、その構想は広くて、とても、一枚の文章では収まりきれません。

多分、アーチェは私の言っている『神』と呼ばれる人と多分、似てますね。

では、その『神』についての定義を。
少し、具体例を挙げますと私が大好きなD2に出てくるフォルトォナやエルレイン……彼女は聖女と言う存在でしたけれど、それに当たります。
レンズがある限り、人々の願いや慈悲によって現れて、半永久的に行き続ける存在。
私はそのフォルトォナやエルレインは人々の悲しみや苦しみから救ってくれる人物……と解釈しています。
実際にそれと仲違いするリアラは『奇跡』を起こしてありえない船を浮かすことができるんですからね。

まあ、『神』というのはとても高貴な存在。私たちが触れることではありませんが。そのことは置いといて。

ありえないことを想像上に膨らますことは容易ではありません。

例えば、テンペストで獣人化する人なんて、見たことがありません。

けれど、それでもそれを読者に伝えることは非常に重要だと思います。ハイ。
マジェスティックファンタジアン Nebel TreeRes BBS v1.00β Credit:校倉