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創作相談板 記事No.7063

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Re: 文章と映像

◆ ブレイズ [URL] [7063] 09/01/14(水) 20:42
こんばんは。ちょっと自分の卑見をば。

映像とは人間の視覚に直接訴えるものであり、僕らはそれを映像そのものとして受容することができます。言うなれば映像は、映像そのものを目的として存在しているというわけです。対して文章は、それを構成する言語の特性上、文章そのものが目的とはなりません。言語とは結局のところ記号でしかなく、その記号は人間の概念と対応するために存在しているからです。(ただし詩作などに見られる言葉の構成そのものの美しさ、いうなれば言語自体の集合的芸術については、この限りではありません)つまり文章と映像という二つの媒体は、メタレベルで見た場合、まったく異なる階層に振り分けられているということです。

上で高嶺樹さんが仰っているように、言語から喚起されるイメージは人によってさまざまで、いうなれば言語は、書き手と読者との間を取り持つブラックボックスのようなものとしてしか存在できません。しかしそれにも程度があって、たとえば誰もが直観できる真理を言語で書く場合と、詩人が自分の感性で書いた詩とでは、読者に伝わる意味の振れ幅が違うはずです。前者は世界中の誰が読んでもそれほど読み取り方にばらつきは出てこず、後者は読む人によって捉え方はさまざまです。仮に数学を言語とした場合、前者は数学記号で書き下された定理や法則だとイメージしていただければよいでしょう。後者は印象派の画家が描いた、極めて形而上的な絵画にでも喩えられましょうか。

何が言いたいのかというと、言語とは人間が表現しうるどのようなものをも表現できる、唯一の媒体なのではないかということです。言語表現はあらゆる振れ幅を持ち、またあらゆる組み合わせが可能なのです。それは違うだろうと言う方もいるかもしれません。言語で映像は作れないし、色彩だって作れないし、音楽だって作れないじゃないかと。しかしそれは表現方法の違いでしかありません。言語は映像や音楽とは違って、言語表現そのものを目的とはしていないのです。言語は結局記号でしかなく、その記号は、読者に伝えるべき事柄をこそ目的として存在しているのですから。そもそも人間の思考は言語によって為されています。それを鑑みれば、人間の表現しうる事柄の全てを言語がカバーしているというのも、あながち間違いではないように思います。

だいぶ話が逸れている上に話を大きくしすぎているのでこれはちょっとおかしいだろうと思われる方も多いとは思いますが、いち学生の単なる卑見として生暖かい眼で見ていただければと思います。遅れましたがJUNさんスレ立てご苦労様でした。ではまた。

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